かべすのおしゃべり

歌舞伎を観たり歌舞伎の本を読んだり歌舞伎のこと考えたりのあれこれを書き残しておきたいなと思いました。

「ふるあめりかに袖はぬらさじ」六月大歌舞伎

先日歌舞伎座六月大歌舞伎楽しんできた時の感想ほか、第三部の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」についてのメモ書きです。

主な配役は以下のとおりでした。
芸者お園 玉三郎
通辞藤吉 福之助
遊女亀遊 河合雪之丞
唐人口遊女 伊藤みどり
遣り手お咲 歌女之丞
思誠塾岡田 喜多村緑郎
岩亀楼主人 鴈治郎

ご覧のとおり、今回の舞台は新派との合同公演ということで話題になりましたね。

コロナ以降、新派も配信や朗読劇などいろいろな工夫と努力を重ねていらっしゃいますが、やはり本格的な舞台の機会が無いままでしたので、新派ファンとしては嬉しい限りです。

そしてなんと言っても主演のお園が玉三郎さんですから、これは期待するなという方が無理でして、期待どおり、いや期待を大きく裏切る素晴らしさでした。

玉三郎のお園は当たり役というか、もうぴったりすぎるというか。
お園という女はかつては杉村春子の当たり役でしたね。
薄幸の美女、花魁亀遊が死して伝説として語り継がれる一方、対するお園はその語り手として時にコミカルさを、時に哀れさを感じさせる役どころ、どちらかと言うと美しい女ではない設定のはず。
そういう意味では、幕間に周囲のお客さんたちが「ちょっと綺麗すぎるわね笑」と歓談されていたのももっともなんですけれど、とは言え役の性根をつかみきっているという意味で、お園は玉三郎さんの当たり役と言いたいところです。

前に玉三郎さんが歌舞伎座でこの「ふるあめりか」を演じられた際も観劇しましたが(なんと、あれから15年も経ってたのね!)、あの時と比べて今回はより自然体な印象といいますか。

序幕、病みついて行燈部屋に寝かされている亀遊を見舞うシーン、ボソボソと低く小さな声のひとりごとで芝居を運んでいく繊細さリアルさ、サラッと流れるような中に亀遊への気遣いや優しさが滲み出ていて本当に素晴らしかったです。
(あんまりにも素な感じのつぶやきで、舞台から遠いお席だと聞こえてないんじゃないかと心配になるくらいでしたが笑)

今回、玉三郎さんのお園として一つの完成形ではなかろうかとさえ思いましたが、これって玉三郎さんの中でお園という女への掘り下げがグンと深まったということに加えて、新派との共演という形態もそれを後押ししたのではないかと自分は推測しています。

共演の新派の方々も素晴らしかったです。
まずは、河合雪之丞さんの亀遊がよかったです。作られた女ではなく、本当にさみしく幸薄く儚げな女がそこにいたように見えました。
そして伊藤みどりさんの、あの怪演、存在感!

一方の歌舞伎の面々も良かったですね〜
福之助さんの藤吉の、あの、恋する男のウジウジとしたところとか、若い男に見られる少しの身勝手さとか、藤吉という男がリアルな存在として感じられました。
鴈治郎さんも第二部「信康」に続けての大活躍で、笑いの呼吸のつかみ方、コメディアンぶりの板につき加減がお見事!でした。

今回の「ふるあめりか」、演者の方々の素晴らしさに加えて、自分としては、お話としての完成度の高さや玉三郎さんが演じる芝居としての意味の重層性などについてもあらためて考えさせられるところがありました。

亀遊の死について語りを重ねるごとに虚構度が増していき、それを責める攘夷の志士に殺されそうになったお園の台詞、「全部本当のことなんだよぅ」の持つ奥行きの深さ。

そもそもの原作自体が、ある女が虚構を語らねばならなくなった経緯とか、虚構それ自体を生きなければならなかった彼女の半生についてとか、フィクションの中でフィクションの起源やフィクションとリアルのないまぜを語る面白さを持っていますけれども、さらにそこに、芝居という虚構を演じる役者玉三郎、あるいはさらに、女形という男が女を演じることの虚構性を二重三重に重ねた時に、「全部本当のこと」という言葉の持つ重みがグーンと増すように、自分には感じられました。

そんなあれこれを考えさせられながらのお芝居のラストシーン、大雨を見ながらのお園のモノローグが、あらためて印象的で素晴らしいなとしみじみしました。

#歌舞伎座 #六月大歌舞伎 #ふるあめりかに袖はぬらさじ