かべすのおしゃべり

歌舞伎を観たり歌舞伎の本を読んだり歌舞伎のこと考えたりのあれこれを書き残しておきたいなと思いました。

「劇評」第2号について

昨日、木挽堂書店さんで「劇評」の第2号を購入いたしました。

新連載や読者投稿ページもできて、ますます内容充実、読者としては嬉しい限りです。

今号もいろいろな方々の評を読み比べたり、自分自身の感想メモと比較してみたりして、大いに楽しみました。

この第2号を読んで考えさせられたことが二つほどあります。

まず一つは、神山彰氏が『「追悼」の流儀或は「時代の共感」』の中で書いていらっしゃる、劇評における批判の問題。

神山氏曰く

明治の団菊、その後の歌右衛門羽左衛門鴈治郎仁左衛門から菊吉に至るまで、多くの欠点や失敗経験を抱えており、それを巧みに冴えた筆で描くのが、評家や文筆家の力量だった。追悼文でさえ、そこを容赦なく指摘する事によってこそ、後世の我々も、実に正動感も肉感性もある存在として、その「名優の面影」を眼前にし、耳に聴くことができる気がする

〜が、現在は

メディアの質も役割も変り、劇団もファンもSNSで却って狭い世界のヤリトリになったから、往年の駘蕩として余裕のある気配は望めないのは十分承知している。

とのことで、読みながら「本当にそのとおりだよなぁ」って思いました。

実際、昔の劇評や評判記なんかを読んでいて、ある役者が批判されていたり、欠点を指摘されていたからって、「この役者はダメな役者だったんだな」とは思わないですし、その人をリアルな人物として身近に感じるのって、まさにそういう欠点の指摘や批判からだったりすること、多いですよね。

一方で現代において、(SNSにおける匿名の悪口は別にして)ネガティヴな評価や批判的なコメントをしにくい空気感が強くなってきているような実感はあって(「ポジティヴなコメントは表現者の役に立つがネガティヴなコメントは害にしかならない」とか、「ファンがいる場でわざわざ批判やネガティヴなコメントする必要あるんですか?」みたいな声、よく耳にしますもんね)、劇評に限らずあらゆる批評というものが成立しにくい時代なんだろうな〜と。

だからこそ、異なる視点からの多様な意見や批評が許容されている、この「劇評」という冊子がとてもありがたいな〜と、読者としては思います。

考えさせられたこのと二つ目は、犬丸治氏や大矢芳弘氏が指摘されていた、歌舞伎の短時間化の問題について。

これはコロナ下での三部制が直接の原因ではあるものの、両氏共に観客の生理や受容による影響も指摘されていますね。

自分自身はかつての昼の部夜の部の二部制のもとで、幕間にお弁当食べたりしながらの観劇体験として歌舞伎というものの味わいを覚えてきたタイプですので、昨今の短時間化上演に対して「なんだかせわしないな。。。」と感じることが少なくないのですが、周囲の人たちから「ドラマを一時間かけて見るの疲れる」とか「映画館で映画見ると倍速や飛ばし見ができないのがイヤ」みたいなことを耳にすることも最近増えていて、「自分の感想や意見は世間のそれとずれてきてるのかもしれない。。。」とも思います。

歌舞伎というものの中には、時代に合わせて変化してきた部分と変えずに守ってきた部分とがありますが、上演時間や筋運びのテンポはそのいずれなのか、そして仮に短時間上演が定着した時に守られるものと失われるものはそれぞれ何なのか。。。そんなことをぼんやりと考えたりしました。

#歌舞伎 #劇評